キオクリョクがございません

つれづれあれこれ

気持ち悪いぞ

 「音楽の力」は一番嫌いな言葉だと、ミュージシャンの坂本龍一は言う。「音楽にメッセージを込めて」とか、「音楽の社会的・政治的利用」は嫌いなのだと…。スポーツでも「勇気を与えたい」とかは恥ずべきこと。少年たちもそれを口にするが、大人のまねをしているのだろう、と…。

 感動するかしないかは個人の問題で、やる側がその力を及ぼそうとか思うのはおこがましい。音楽家が聴く人を癒やしてやろうなどと考えたら、こんな恥ずかしいことはないと…。(2020.2/2朝日新聞)より。       

 

 絵本作家の五味太郎が「感動が少ない人たちに“感動好き”が多い」と書くが、それを受けて哲学者の鷲田清一は「その感動は類型的で代わり映えがしない。感動とは本来前もって設定できず、不意を襲いしばらくワケが分からないもの。戸惑いではなく、安心させる安っぽい‘感動’の輪を広げようとするのは気持ち悪い。」と…。

                        (折々のことば 22/1/29)より。
 冬季オリンピック開催中だが、「感動を与える」との言葉は何度発せられた?。

 

 

 また、テレビとかで地域興しに関わる若者が「地域への恩返し」とか言うのを見ていると「ホンマかいな」と思う。
 そういう気持ちもまるでウソではなかろうが、普通は気恥ずかしくてあまり口にしないダロウ。資本主義のコマーシャリズムに毒されている、そう言えば言い過ぎだろうか?。
 それはタテマエでしかなく、ホンネはこれを利用して稼ごうとか、賞賛を得ようとかじゃないかと…。そんなヤカラには「イイネ」だけ言ってさよならしたい。
 
 「自分のできること、やりたいことをアレコレやっていたら、ここにたどり着いた」と言う方がホンネらしくて信頼できそうだ。
 個人的には「稼ぎたいのと感心してもらいたいのを両立させようとしたら、これだった」と言う人の方が好きだ。